1948年(昭和23年)の歴史

禅寺の本堂を借りて教室に

正泉寺での授業風景
正泉寺の見取り図

戦後の関西簿記研究所の授業は、堀川小学校南側に焼け残っていた住宅で始まりました。しかし、ここでは手狭であったため、1948年(昭和23年)、正泉寺を借りて教室とすることになりました。

正泉寺は、現兎我野町寺町通りに面した一画。関西テレビから西ヘ150メートルの位置にあり、三日月温泉という市営浴場と墓地にはさまれた小さな寺でした。その本堂に折りたたみ式の木製長机と長椅子を並べ、授業を行いました。その頃の定員は約20人。白井種雄の人脈で教師も少しずつふえていましたが、担当の教師は須弥壇の前に移動式黒板を置き、本来なら僧が着座される位置に席を構えていました。

付近の焼け跡からは、このころになっても空襲の犠牲者の遺体がしばしば発掘されていました。そんな光景を横目にしながら、生徒たちは夜間だけの教室に通っていました。とくに1949年(昭和24年)九月にシャウプ勧告が発せられて所得税中心の租税制度が実施されると、経理事務への社会の関心はいっそう高まり、関西簿記研究所も多くの生徒を集めました。なお、法律の大幅改正によって従来の計理士は1948年(昭和23年)から公認会計士に。税理士の資格が生まれたのは1951年(昭和26年)でした。

1950年(昭和25年)10月、正泉寺境内に仏教会館が完成したのを機会に、教室を移転。木造コンクリート床、約64平方メートルの教室でした。このころ、現在の南森町校舎敷地にあった研究所の事務所も、黒板一枚、生徒8人程度の教室として利用していました。

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